スポーツ選手の葬儀から学べること

スポーツ選手の葬儀

三沢光晴(プロレスラー)の葬儀
三沢光晴は日本を代表する正統派プロレスラー。1981年に全日本プロレスでデビューして以降、2009年にリング上での事故が原因で亡くなるまで、長きにわたり活躍しました。2代目タイガーマスクとしても知られる三沢の全盛期は90年代でしょう。
 
タイガーマスクから素顔の三沢光晴にもどると、川田利明や小橋健太、そして田上明と全日本プロレスを盛り上げます。この間には三冠統一ヘビー級王座も獲得。特に小橋健太とのマッチは激しく、そして三沢自身が死を意識するほどに過酷なものでした。
 
三沢は2000年代に入り、自ら新団体「プロレスリング・ノア」を立ち上げることになります。ノア旗揚げには全日本から多くのレスラーが参加しました。ノアの社長として多忙を極める中でも試合には出場を続け、GHCヘビー級王座、GHCタッグ王座のタイトルを複数回獲得しています。しかし、既にこの頃、三沢の体は完全に音を上げていました。頸椎、そして肩や膝に爆弾を抱えているような状態でした。
 
三沢は2009年6月13日、GHCタッグ選手権マッチに挑戦者として、潮崎豪とともにリングに上がります。その試合中に受けたバックドロップで三沢の意識はなくなり、心肺停止状態に陥りました。リング上での蘇生措置後に救急搬送されましたが病院で死去。死因はバックドロップによる頸髄離断とされましたが、プロレス関係者の間では、その過激な戦いによる蓄積ダメージが命を奪ったと信じるものも多くいるそうです。
 
プロレスラー三沢光晴の葬儀(密葬)は、2009年6月19日、遺族と関係者200人が参列して行われました。この時の三沢の遺影は「レーシングスーツ」を着たものだったそうです。プロレスラーとしては意外かもしれませんが、
 
これまでずっと選手、そして社長として常に重荷を背負っていたため、そのプレッシャーから最期だけは解放を
 
という遺族の意向があったとされています。
 
その後の7月4日、ファンのための葬儀・献花式が行われました。祭壇前にはイメージカラー・グリーンのリングが設置されました。「三沢光晴お別れ会~DEPARTURE~」と名付けられた式典には、ファンと関係者約2万6000人が参列しました。普段はプロレスに熱狂している、多くの人々が集まったにもかかわらず、静かに、そして悲しみを押し殺すように、皆が別れの花を手向けたそうです。
 
ここにアナウンサー・徳光和夫さんの弔辞の一部を引用します。
 
男の強さは優しさであり、勇気であると身を持って教えてくれた三沢さん。こうしたレスラー・三沢光晴であったからこそ、ノアの旗揚げの時にあれほど多くのレスラーがあなたに人生を預けたのです。
今君が最も案じているのは、ノアと今度のプロレス界の統一のこと。君はよく世間に向け、「プロレスは実におもしろく、深いスポーツ。ぜひ一人でも多くの人に会場に足を運んでもらい、生で見てもらいたい。多くの人がプロレスの魅力の虜になるであろう」と語りかけていました。
これを三沢光晴の遺志としっかり受け止め、ノアの選手たち、ノアの会社の人たち、各団体のレスラーたちが、既に歩み始めています。
もちろん、その中には斎藤彰俊選手も入っています。正直彼はまだ傷心であり、心痛は癒えていないと思います。しかし、三沢さんのことだから「斎藤、お前のレスリングを貫け! そしてもっと大きな斎藤になれ!」と天国から檄を飛ばしていることでありましょう。
 
徳光さんの弔辞は、最期となった試合でバックドロップを放った斎藤彰俊選手についても触れています。三沢光晴は無念だったでしょう。しかし、傷心の斎藤選手を気遣う言葉には、涙を流さずにはいられません。
 
加藤大治郎(MotoGP レーサー)の葬儀
加藤大治郎をご存じでしょうか?「大ちゃん」「大治郎」などと呼ばれ、多くの人々に親しまれたオートバイレーサーです。16歳でロードレースデビュー。全日本ロードレース選手権250ccクラス、ロードレース世界選手権GP250、鈴鹿8時間耐久ロードレースなど数々のタイトルを獲得した後の2003年、レース中の事故が原因で天国へと駆け抜けていきました。
 
加藤大治郎は2003年、念願のロードレース世界選手権MotoGPに参戦します。参戦1年目の2002年は、MotoGPのルール変更の影響もあり、勝利を挙げることはできませんでしたが、2年目のシーズン前には当時のチャンピオン、バレンティーノ・ロッシから最大のライバルとして名前を挙げられていました。日本のファンも、初の日本人MotoGPチャンピオンの誕生を現実に、近くに感じることのできるシーズンの始まりでした。しかし…
 
加藤大治郎はシーズン初戦の鈴鹿サーキットで大事故に見舞われます。マシンがバランスを失い、高速でバリアに衝突したのです。事故から約2週間経った2003年4月20日、26歳の若き天才ライダーは息を引き取りました。
 
お通夜が21日、そしてその翌日22日に葬儀・告別式が、そしてファンのための葬儀・お別れ会は翌月の5月18日に、所属のホンダ青山ビルで行われました。このお別れ会には日本全国から9000人を超えるファンや関係者が集まりました。デビューからずっとホンダのマシンに乗り続けた加藤大治郎。会場にはGP250のタイトルを獲得したNSR250など、天才ライダーが駆ってきたマシンたちが展示されました。ホンダの2輪レーシング部門の金澤賢HRC代表取締役社長は、
「大治郎が夢を叶えてくれる」と確信した矢先の出来事でした。今後WGPを戦う上で、君を失ったことはあまりにも大きな痛手です。Hondaはこれからも様々なレースに参戦していきますが、私たちは常に君のスピリットとともにチャレンジを続けていきます。
と挨拶し、若き才能のあまりにも早い死を悼みました。
 
実は加藤大治郎の死から約1週間後、彼の所属していた「テレフォニカ・モビスター・ホンダ」のチームメート、セテ・ジベルナウがMotoGPでチームに初勝利をもたらします。
セテはレース後、
Dai-chan rode with me today
(大ちゃんがいっしょに走ってくれた)
I dedicate this victory to Daijiro, it was as if he was riding with me today
(この勝利を大治郎に捧げます。あたかも彼がいっしょに走ってくれていたかのようだった)
 
と語り、南アフリカの空にトロフィーを高く掲げました。
 
セテの言葉は葬儀の席で語られたものではありませんが、最高の弔辞と言ってもいいのではないでしょうか?
 
橋本真也(プロレスラー)の葬儀
橋本真也は1990年代の新日本プロレスを支えたレスラーで、武藤敬司、蝶野正洋とともに「闘魂三銃士」として人気となりました。スーパーヘビー級の体には似合わず、素軽い身のこなしとキック主体のファイティングスタイルは、まさしく「破壊王」の名がふさわしいものでした。
 
IWGPヘビー級タイトルは通算で20度も防衛。その中にはUWFの高田延彦を倒した勝利も含まれています。柔道の小川直也が格闘家としてプロレスのリングに上がった際には、抗争を繰り広げました。しかし、度重なる敗北により、一時、引退を表明します。
 
その後、ファンの熱烈な呼びかけから復帰を決意。新たなプロレス団体ZERO-ONEを立ち上げました。その後、三沢光晴の「プロレスリング・ノア」や武藤敬司の「全日本プロレス」など、団体の垣根を越えてリングに上がり続けました。2003年には、闘魂三銃士として共に活躍した武藤の化身「グレート・ムタ」から勝利。「三冠」タイトルを奪取しました。
 
しかし、その後は肩のけがに悩まされ続けます。自身の団体ZERO-ONEも大きな負債を抱え空中分解。心機一転、フリーとなってリング復帰のためにトレーニングを行っていた中、脳幹出血で倒れ、帰らぬ人になりました。享年40歳。2005年7月11日のことでした。
 
7月16日に行われた葬儀には、他団体のリングにも数多く上がった橋本らしく、団体の垣根を越えて多くのレスラーが参列しました。特に抗争を繰り広げた小川直也、三銃士の武藤、蝶野の悲しみの表情に多くのファンが驚き、そして涙を流しました。出棺時には、プロレス中継を担当していた高島宗一郎アナウンサー(現福岡市長)による「破壊王・橋本真也」コールの後、入場テーマ曲と共に火葬場へと送り出されました。
 
7月30日には、プロレス関係者とファンが集まり、合同葬儀が行われました。斎場にはリングが設けられ、そのリング上では蝶野、武藤、小川が中心になり式が進められました。さすがに出棺時のような悲壮感はなく、終始、穏やかな雰囲気の中、式は進行しました。「闘魂三銃士」の絆、そして実際に正面を切って激しく戦った小川や仲間のレスラー達の気持ちがあふれる式典でした。そして式の最後はやはり橋本コール。8000人があまりにも早い「破壊王」の旅立ちを悼みました。
 
松田直樹(プロサッカー選手)の葬儀
プロサッカー選手の松田直樹は、現役時代をほぼ横浜F・マリノスで戦ったディフェンダー。2002年日韓ワールドカップでは、トルシエジャパンの特徴的なシステム「フラット3」の一角としてプレーしました。その後、ジーコジャパンにも招集されましたが、荒い性格から損をすることも多く、指揮官に反抗した後は、代表に呼ばれることは、ただの1度もありませんでした。
 
この性格は、アグレッシブなディフェンスと紙一重のものでもありましたが、彼の代表キャリアにおいては、どちらかというと負の方向に働いたと言わざるを得ません。「ミスターマリノス」とも呼ばれるまでになった松田でしたが、2010年には戦力外通告を受けます。そして2011年には、当時はJFLに所属していた松本山雅FCと契約します。
 
松本山雅FCでも、頼れる存在として君臨した松田でしたが、8月2日、突然、練習中に倒れて病院に緊急搬送されます。その後、松田は意識を取り戻すことはなく、8月4日に息を引き取ります。34歳という若さでした。
 
松田の死は、Jリーグ以外の競技場だけではなく、他のJFA管轄リーグにもAEDを常備することにつながりました。ひじょうに残念なことではありますが、松田選手の死がきっかけでAEDの幅広い場所への設置が進められたのです。
 
8月9日に行われた松田の葬儀には、2002年日韓ワールドカップのトルシエ監督や中田英寿など代表メンバー、横浜F・マリノスの中心選手や松本山雅FCの選手が参列しました。
 
喪主を務めた松田選手の母、正恵さんは、これまで応援してくれたサポーターに対し、
 
なぜ直樹を応援してくれるのか不思議でした。が、皆様に愛されていたのだと気づきました。直樹は最後まで、死にものぐるいでがんばっておりました。私も死ぬまで両チームを応援します。横浜Fマリノス、優勝してください。松本山雅、J2にあがってください
 
と挨拶しました。
 
松田直樹は少々、熱くなりすぎる選手だったかもしれません。そしてその性格が災いしたこともあったかもしれません。でも、だからこそ、その有り余る闘志があったからこそ、多くの人に愛されたのでしょう。8月26日に開かれたホームスタジアムでの葬儀・お別れ会には3000人以上が集まりました。
 
シーズン終了後の翌年1月には、横浜F・マリノスの本拠地・日産スタジアムにて追悼試合が開催されました。86人のサッカー関係者(選手、監督など)と約4万のファンが集い、プレーした選手の多くが、松田直樹の人望がこれだけの人を集めたと語っていたのが印象的でした。